寛文元年、京都の東福門院御所から江戸に連絡があり、
松平信綱に御用があるから上洛してほしい、といってきた。
さっそく信綱が上洛してその御用をうかがうと、十ヵ条からなる願いの筋で、
後西天皇から出たものだったといわれる。
ところがその願いを聞いた信綱は、江戸の将軍家綱や他の閣老たちに相談せず、
その場でそれらが全て叶い難い事を理路整然と復答して、江戸へ帰っていった。
帰府した信綱は、隠居し空印と号していた酒井忠勝のもとを訪れ、その経緯を報告した。
信綱としてはいささか得意な気持ちもあった。
すると空印はその報告を聞き終えると、やおら口を開いて次のように語った。
「お話はたしかにうけたまわった。
ただ女院御所からわざわざ貴殿を名指しで召しのぼされたのは、
それが重い御用だったからと思われる。
そしてその御用が全てお引き受けできないような願いであり、
貴殿の才覚をもって申し開かれたことは道理至極で、
非難すべきところは少しもないが、
徳川家ゆかりの女院御所の仰せでなのであるから、
理非ともに将軍家に一応お伺いすべきではなかったか?」
「その場で理非が見えるからといって、すぐにご返事はせず、
それほど不都合のないものは、
一、二ヵ条くらいは仰せ通りにしてやるべきではなかったか。
だいいち、こたびの貴殿のなされようは、
京都よりも江戸の将軍家をないがしろにしたものと言われても致し方あるまい。」
空印のこの言葉は痛烈であった。
空印は〈知恵伊豆〉といわれる信綱の〈理〉に走りすぎる政治を憂えていたのである。
信綱は赤面して辞去したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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