御当家からの御恩賞☆ | げむおた街道をゆく

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出雲少将・京極若狭守忠高が死去した時、

実子がなければ領国を改易するのがその当時の決まりであったため、

忠高の領地は召し上げられるという事となったが、

かの京極家は数代の名家であったため、
将軍家光も惜しく思われ、忠高の甥である刑部大輔高知にかの家を相続させ、

京極家の本領である大津六万石を所領させるように、との沙汰があった。

これについての評議の場で、幕府重臣たる井伊掃部頭直孝は反対した。
「京極家と鳥居家は、双方慶長五年の関ヶ原にて籠城した人々です。

その上で一人は城を守って討ち死にし、一人は城を開いて立ち退きました。

そして、京極家は百年を重ねた名家であるからと、

その子孫には出雲・隠岐二十四万石を与えられました。
鳥居家は当家御譜代であり、その節死もあり、それら忠義を思し召し、

元和八年羽州最上にて、二十四万石を与えられました。

ところが、鳥居伊賀守忠恒が早世して子無き故に、去る寛永十三年でしたか、

その苗字ばかりを残され、
忠恒の弟である主膳正忠春に三万二千石を下されました。
それなのに、京極刑部に六万石は多すぎるのではありませんか?」

人々、直孝の理に納得したが、これを聞いた酒井讃岐守忠勝は、
「掃部頭の申される通り、大津・伏見の籠城の功、鳥居が討ち死にしたのも、

京極が城を開き渡したのも、その功に勝劣はない。

何故ならば、京極が大津城に立て籠もったために、

上方勢2万余りが関ヶ原に向かうことが出来なかった。

すなわち二万の敵を京極高次一人が支えていたのだ。

また、それぞれの家について吟味するなら、鳥居は三河侍譜代、

京極は御当家同列の大名であった。
我々のような譜代は、子孫が如何様に召し使われ、領地残らず召し上げられ、

御扶持米で召し使われることと成っても、どうして不満を申し上げるであろうか?
そのような異議を申し上げない所が、御譜代の第一の慎みである。

また将軍家も、父祖の功を思し召されたが故に、

鳥居彦右衛門(元忠)の本領(下総国矢作領)と同程度の石高を与えられたのだ。

京極家も一旦御味方申して、終始志を翻さなかった。
これらから考えれば、大津の禄六万石はかの家の本領であり、御当家の御恩ではない。
しかし本領と同程度の石高を以って京極家を存立させるのは、御当家からの御恩賞となる。
御譜代と諸侯との違いを、誰が批判するであろうか。」

これに、人々はまた尤もであると評議一同して、上達の上にて讃岐守が言ったように、
京極高知には六万石が与えられ、大津ではなく播州龍野の領主に仰せ付けられた。
その後彼は、萬治年中に讃州丸亀に転封した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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