広忠公御死去之事☆ | げむおた街道をゆく

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天文己酉歳3月6日に広忠公(松平広忠)25歳で御死去なされた。

そういうわけで岡崎でも頼るべき方なく、

そこで一門中家老の面々は差し集まって評談を行った。

石川伯耆守、本多肥後守(忠真)、天野甚右衛門(景隆)、

この3人は申して、

「織田備後守(信秀)方へ申し寄せ、

尾張と一味して竹千代殿(徳川家康)を相違なく岡崎へ帰城させ、

守り立て申すべきだ。」

と言った。

石川安芸守(清兼)、酒井雅楽介(正親)が申すには、

「今川義元はすでに領内3ヶ国で4万余騎の大将なので、

この力をもって本意をさせ申すべきだ。」

と言った。

さて上村出羽守(植村氏明)、鳥居伊賀守(忠吉)、その他の残る面々が言うには、
「尾張と一味ならば早速本意となろう。

さりながら、駿河と手切れとなれば3ヶ国の軍勢をもって取り詰められることになって、

たちまち難儀に及ぶであろう。

しかしながら、戦の勝ち負けは多少にはよらず。

先年の小豆坂の合戦で駿河勢は3万余騎の着到であったが、

織田備後守は3千余騎をもって馳せ向かい、

五分の三つは味方が利を失った。

尾張と一味ならば早速帰城たるべし。

義元が3ヶ国の軍勢を催すならば御本意は違い申すべし。」

と言って、ついに評議は落着致さず。

そんなところに、広忠公御死去の由を義元卿は聞こし召し、

駿府より岡崎の城へ在番を入れられたのである。

朝比奈備中守(泰能)、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守(長持)を頭とし、

義元卿の近習衆3百余騎が籠め置かれたことで、

それより是非なく岡崎は駿府を守って居り申した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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