松平広忠の大叔父にあたる兄弟、松平内膳正信定と弟の松平右京亮義春は、
兄弟仲が非常に悪かった。
そもそもは兄・信定の宗家への強い反抗心が原因であり、
特に天文4年(1535)の松平清康の頓死。
いわゆる守山崩れの後、松平家の家督を奪いにかかった。
この信定の行為に、弟義春は激しく反発。
清康の嫡子・広忠の三河復帰を後援するなど、
兄との対立は決定的となった。
しかして天文6年(1537)6月、松平広忠が岡崎城に復帰、
松平宗家の家督を取り戻すと、
さすがの松平信定も遂にこれに屈し謝罪、広忠の配下に復した。
が、広忠は許しても弟の右京亮義春は許さない。
彼は帰参した兄に向かってこう言い放った。
「内膳正は兄ではあるが、宗家に対して何度も裏切ったので帰り新参である!
私は弟ではあるが一度も裏切ったことがない。
よって家臣の席次は私の方が上座に座るべきである!」
これには信定も怒る。
「一体どんな理由があったとしても、弟より下座に座れるものか!」
大変な口論となり、お互い一歩も引かなかった。
そのため遂に、それぞれが登城日を重ならないようにすることとなった。
こんな事があって以来、この兄弟は道をすれ違う時も双方刀を抜き、
家臣たちもいつでも刀を抜けるようにして通るなど、
岡崎城下には一触即発の不穏な空気が流れた。
兄弟による衝突は、避けられぬものかと思われた。
…が、
程なく、双方とも相前後して病死し何事も起こらず終わった、とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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