ある時、武田晴信(信玄)が、山本勘助を呼んで聞いた。
「そなたの生まれた三河国では、近年、優れた大将は出なかったのか?」
これに勘助は答えた。
「最近では、松平清康という大将が、弓矢を取っては敗れること無く、
生国の三河を征服し、同国の侍大将たちを与力として従え、
いまにも尾張国を手に入れようと、意欲的に活動していました。
彼は尾張と数度の合戦を重ね、尾州勢五千に対し、三河は千の軍勢でも、
一度も負けること無く、尽く勝利を得ていました。
5年間の活動の間に、本国三河で与力となった侍大将衆は皆清康の被官となり、
彼を主君と仰いで、尾張は勿論のこと、美濃、伊勢にまで出陣し、
近隣諸国に威力を振るい、清康は武道の大家として名を馳せ、
遠国の浪人衆まで馳せ参じで彼の家中での奉公を望みました。
そして本国は勿論のこと、尾張の者まで清康配下に入ろうという勢いだった所で、
不慮のことで亡くなられてしまいました(森山崩れ)。
今は清康の息子である広忠の代ですが、他国に広げた勢力圏は勿論のこと、
本国三河すら他人の物になろうとしています。
もし清康が健在であったら、三河侍は今時分、
皆清康譜代として、他国に威力を振るっていたでしょうに、
果報少なく不運だったため、思いがけぬ死によって、
哀れにも今では本国の人々でさえ、
子息・広忠の統制下に、はいらない状況なのです。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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