徳川家の重臣・大久保忠隣が、
本多正信・正純親子との政争に敗れ改易されたこと、これは有名である。
忠隣はその後、近江の井伊家において、流人として拘束されていた。
さて、元和2年(1616)4月17日、忠隣の改易を命じた徳川家康が死去した。
これにより名実ともに、かつて大久保忠隣が力強く補佐した将軍徳川秀忠の世となり、
井伊家当主・直孝は、
「もはや良き時分である。」
と、忠隣の元を訪れこの様に言った。
「あなたはどうして将軍家に上書して、冤罪を雪がないのでしょうか?
もし、そう言った意志がおありなのなら、
不肖ながら私も又、あなたの力になりたいと考えています。」
今や幕府有数の実力者でもある直孝の言葉であり、
秀忠が忠隣に対し好意的であったこともあわせて、
直孝の後援があれば忠隣の名誉回復も容易ですらあっただろう。
ところが。
「お断り申す。」
忠隣は即座にそれを辞した。
「昔から忠を以って退けられるということ、その例も多い。
私が今この様にあるのも、ただ天のなしたことであろう。
それにな、大御所様は既に身罷られた。なのに今更私が罪のないことを申し出るなど、
これは主人の過ちを天下に暴露するようなものであり、その様なこと私の素意ではない。
その上、強いて私の冤罪を雪ごうとすれば、
今の将軍家に父である大御所様の過ちを認めさせるという不孝をさせてしまうことになる。
そのような事をたかだか我が身一つと変えるなど、私には到底受け入れられない。
そうであるから、私は今のまま、このようにして臣節を全うすることが、最も良いのだよ。」
これを聞いて直孝は言葉も無く、ただ涙を流し忠隣の元を下がったと言う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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