秀次事件・秀忠脱出作戦☆ | げむおた街道をゆく

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文禄4年(1595)、秀次事件の時のことである。

関白・豊臣秀次謀反の噂高まった頃、

当時京の徳川家の屋敷には、当時16歳の徳川秀忠があった。
 

秀次はこれに目をつけ、たばかって秀忠の身の上を確保し、

その上で人質を盾に、
徳川家康を頼って太閤秀吉に申開きをすべし、と考える。

4月3日の早朝、徳川家の屋敷に秀次よりの使者が来た。
これに対応したのは徳川家重臣、大久保忠隣である。

「今朝は朝食をご馳走したい。どうぞ聚楽へと参るように。

本来なら昨夜のうちに伝えておくべきだったが、

いささか事にまぎれてしまい、今になった。」

使者はそう忠隣に語り、直ぐに秀忠をつれてくるよう要求する。

 

が、忠隣これに、

「仰せ、承りました。

ですがその…、秀忠様はまだ幼く、

いつも日が高く上がってから漸く起きだすのです。
関白殿下へのご返事が遅れるのは大変憚るべきことですので、

お使いの方々は一旦お帰りになって、この事を関白殿下にお伝え下さい。
忠隣は秀忠様が目覚められましたら仰せのことを伝え、

必ず聚楽に参らせます。」

と、使者を返す。

 

勿論秀忠が未だ寝ているなど、嘘である。

忠隣はすぐさま土井利勝をお供に、
秀忠を密かに伏見の屋敷へと移し、その上で自身は京屋敷に留まった。
 

そのうちに秀次の使者が再び、催促のためであろう、徳川屋敷に訪れた。
 

忠隣これに対面して、曰く。

「いやはやそれが、秀忠様ですが、かねてから茶会の約束があったそうで、今日の早朝、
伏見に行かれたそうなのです!

私はその事をまるで知りませんでしたから、又いつものように、
日が高くなってから起きる事よとばかり思っていたところ、

たった今この事を知らされ、
返す返すも恐れ入ることでございます。」

と、心底恐縮している体で謝罪する。

 

時間は既に午の刻あたり(正午ごろ)、追いかけて戻すことも、

もはや無理であり、使者は如何とも出来ずそのまま戻っていった。
 

秀次は大変口惜しく思ったが、程なく切腹し果てられた、とのことである。

大久保忠隣の、秀忠脱出作戦についての逸話である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 相模小田原藩主、大久保忠隣

 

 

 

ごきげんよう!