細川越中守忠興が、徳川家康の上杉征伐に従軍する時、
大坂に留守として置いた侍の中に、
稲富喜太夫(祐直)という者があった。
忠興の内室(ガラシャ)が、大坂で自害した時、
留守居であった小笠原少斎以下の士が、尽く討ち死にした中、
稲富は、その場を落ち延び、命生き延びたのを、
忠興は殊の外立腹し、
捜し出して、必ず罪に問うと言っていた。
この事を、徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った。
「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。
あなたの憤りは、尤もだと思います。
ですが、稲富を助け置いてほしい。
彼は天下一の鉄砲の名人です。
武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」
この言葉に、忠興は、
「稲富に、とってありがたい仰せです。」
と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ、一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大坂の陣の折、
幕府軍の大筒は大坂城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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