「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると、
加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから、自身は越中の開発をめざした。
関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…。」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、
五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする、
利長の決意の表れでもあった。
利長の死後、一時高岡は衰退したものの、利常たちの庇護で盛り返し、
金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて、
日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!