前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が、
同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、
向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て、
「本能寺で信長公が弑せられました。」
と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには、
「父・利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう。」
すると六人の供が皆もとどりを切って、
「尾張への御供はいたしません。」
とはっきり申した。
利長は、これを聞いて、
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ。」
とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、
新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、
逃れる手だてがなかったためであろうか。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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