会津蘆名家家臣・松本太郎行輔は、
天正12年(1584)、主君・蘆名盛隆の留守中,若干16歳で謀反を企てた。
それには、こんな経緯があったと言う。
太郎11歳の時のことである。
太郎の父・松本図書助氏輔は、天正7年(1574)に討死した。
寡婦となった母は、その容貌美しいこと有名で、
家中の平田氏が彼女を妻に請い、主君・盛隆もそれを許可した。
彼女は平田氏と再婚する運びとなった。
太郎はまだ幼少であったため、このような話の進んでいることは知らされず、
彼は母の婚姻が決まってから、初めてそのことを知った。
太郎は驚き怒った。
「私は、例へお屋形様の御意に背くことになろうとも、
この事を畏まり候と言うことは出来ない!
私がいかに若年だと言っても、父の遺産を相続した身である。
そうである以上、どうして母を他所に嫁がせるようなことができようか!」
この怒りは家中に伝わったが、
「なにぶん太郎はまだ子供である。上意であると強く言えば、すぐに心変わりするだろう。」
と、軽く考え、周りの大人達は彼を脅かすことにした。
「これはお屋形様の御意も既に定まられたことである!
なのにお前が今になってとやかく申すので、
ご心象を甚だ悪くされ、切腹せよと検使をおつかいなされたぞ!」
そう言うと一人の侍を呼び入れた。
ここまでされれば太郎も命押しさに震え上がり、
前言を撤回すると思ったのだ。が、
「この様にお屋形様の意に背いたことを言っていた以上、基より覚悟の上でござる!」
と、いささかの怯えた様子も無く身を清め装束を整え、今まさに切腹をしようとした。
大人たち、
「この子はどのように脅したところで心変わりするようなことはない。」
と恐れ、その後はとにかく色々と騙しすかして、母を平田氏のもとに嫁がせた。
しかしその後も、太郎は継父との交流を拒絶し、盛隆の措置を恨んだ。
この恨みが後の謀反につながったのだと言う。
子供であれ、武家の当主には意地も誇りもあるのだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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