会津蘆名氏の最盛期を築いた、蘆名盛氏の時代。
耶麻郡藍川の城主は、七ノ宮自然斎と言った。
この自然斎、盛氏に非常に重用されていたのだが、それにはこんな事があった。
その頃は朝夕と無く兵乱が起こり、地下にはその度に軍役がかかった上、
しばしば課役も無理強いされた。
しかしそのような庶民の苦しみを上に伝える者も無く、蘆名氏の居城、黒川城下には、
『天寧寺 河原の石は大和殿 町の小役は或人が取る』
と言う落書が広まった。
この大和殿と言うのは蘆名家家臣佐瀬大和守の事で、
彼は泉水の数寄で、天寧寺河原から怪石を探し出しては、
大勢の人夫を雇って自分の庭園に集めていた。
ちなみに彼の庭に集めた怪石は、江戸時代までその跡を見ることが出きたそうだ。
そして「或人」とは当然、蘆名盛氏その人の事である。
この落書の事も、盛氏の耳に入れる者はいなかったが、ただ自然斎一人が、
ありのままに盛氏に語ったのだそうだ。
またある時のこと。
盛氏が黒川城下に立った市に集まる商品を買取ったが、この時その価格を無理に下げさせ、
半額だけしか支払いをしなかった。
(こういう買い手による無理な買い叩きは、この時代珍しくなかったそうだ)
これにもさっそく落書が出る。
『市町に 半を買いぬるむりうじは 外の聞こえをあしなとぞ思ふ』
これも自然斎ただ一人だけが、ありのままに報告した。
このようであったので、
盛氏は七ノ宮自然斎を非常に信用した、というのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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