永禄元年、会津四家の一つに数えられる奥会津の豪族、
山内俊政・横田俊範兄弟が兵を起こした。
二人が攻めるは、岩谷城。
蘆名四天の筆頭松本家の根拠地である。
折から当主・松本舜輔や、その子氏輔は黒川城に詰めており、
城代井上河内守が代わって城を預かっていたが、何分不意打ちである。
河内守は討ち死に、城も落城したとの知らせが黒川に届くまでそう時間は掛からなかった。
報告を受けた蘆名盛氏は、相当激しい怒りを発したらしい。
それでなくても、山内家は河原田家、長沼家と並んで、
蘆名家と会津の覇を競ってきた間柄。
決着を付ける時と見たのかもしれない。
「すぐに兵を発し、山内家を討ち滅ぼすべし。」
そう下命した盛氏に、しかし異を唱えた家臣が一人いた。
「此度のこと、兵を出すには及びませぬ。
某にお任せいただければ、必ずや山内一族を帰順させて参ります故、
しばし追討の儀はお待ち下さいませ。」
そう訴え出た者こそ、山内一族の一人であり、
例外的に蘆名家に早くから帰順していた沼澤政清である。
この頃、田村家との抗争が激化していた頃でもあった為か、
盛氏は政清の願いももっともなことであると思い、
政清が山内舜通(山内家当主で俊政、俊範の長兄)の下へ赴くことを許した。
すると果たして、政清はほどなく山内家との和議を成立させて帰ってきた。
それも山内家の蘆名家への臣従という、明らかな蘆名家優位の講和でだった。
最良の成果といっていいだろう。
……ただし岩谷城の山内家への割譲という条件を取りまとめて、ではあったが。
家臣一人殺された挙句、領地は戻ってこなかった上に割譲に対するフォローもなし。
と、ここまでなら会津統一のための外交配慮の結果とも取れる話なのだが、
この話には続きがある。
後の天正二年に松本氏輔が田村清顕と戦って討ち死にすると、
嫡男行輔が七歳の若年であることを理由に領地は召し上げ、
その領地は沼沢政重(政清の子)に与えられてしまった。
さらに行輔が元服した後にも、「若年の故」をもって黒川城下の屋敷さえ収公し、
政重に払い下げた。
挙句の果てにはこれに不満を爆発させた行輔の謀反、
その翌年の松本一族関柴輔弘の謀反も沼沢に鎮圧させている。
そしてその後に松本家を継いだのは、松本源兵衛なる宗家との血縁すら判らない、
ぱっと出の男だった。
どう見ても蘆名盛氏、盛隆二代足掛け30年越しの松本家潰しにしか見えないお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!