老武士たちの語る所によれば、相馬顕胤は、
相馬三郡の武士を総動員して戦ったのは三度であった。
小戦での働きは度々に及んだ。
しかし近郡を尺地も犯すことはなかった。
実に良将の器であった。
その封土を今見てみれば、東は一里あまり。
南は行程十三里あまり、西は六里に近く北は二里に足らず。
漁樵は便を得てその利多し。
地雄人傑にして東方の険地である。
魚鳥禽獣尽く集まり、木竹は豊かで、漁樵五穀の利は挙げても尽くしがたいほどであった。
そして相馬顕胤が愛憐深く、義理を重んじる人であったので、人々はみなこれに懐いた。
しかし、牛渡兄弟だけは違った。
牛渡治部とその舎弟・近江は、所領のことで恨みを含む事があり、岩城へと亡命した。
相馬顕胤が富岡に在城していた時、牛渡兄弟は岩城氏に、
「野伏を三百人ほどお預けいただきたい。
富岡を取って参りましょう。」
と申し上げると、了承され望むに任せ富岡へと差し越された。
ところがそこで兄弟は、幾千ともしれぬ大量の人魂が、
まるで蛍火のように乱れ飛ぶのを目撃した。
近江は思わず、兄に言った。
「この奇怪の甚だしさよ。夜討ちは止めるべきではないでしょうか?」
しかし兄の治部は答えた。
「日限を定めてここまで来たと言うのに、帰れば人の嘲りを受けるだろう。
しかしお前は帰れ。」
そう言われ、近江は岩城へと帰っていった。
そうして牛渡治部は富岡城に夜討ちを仕掛けたが、
彼の襲撃は城中において既に察知されており、
待ち構えていた所に寄せてきたのを、追い散らし、ここで治部は討ち取られた。
牛渡近江はその後伊達へと行き、そしてまた標葉に戻った。
その事を知った相馬顕胤は、江井河内、岡田摂津に、
岡田宅に近江を呼び寄せ討ち取るように仰せ付けた。
江井、岡田の両人は相談し、牛渡近江を呼び、酒肴を勧めた後、江井はこう言った。
「牛渡殿の御刀は達磨正宗にて、名誉の切物と承っている。
どうか見せてくれないだろうか?」
この望みに牛渡近江は、
「貴殿も大原真盛の太刀にて、度々の功名隠れなし。それを、私にも見せてほしい。」
こうして互いに抜いて、左右の手に取り替えて見て、その後また返し、互いに鞘に収めた。
近江は退出する間際に、
「この牛渡を謀って討とうなど、思いもよらぬことだ!」
と言って帰っていった。
その後、牛渡近江は小高に来て、宿老を通じて相馬顕胤に面会し、言った。
「私は流浪の身となるよりは、死して御屋形様の憎しみを晴らして差し上げましょう!」
そう申し上げると自分の太刀、刀を投げ捨てた。
これを見て相馬顕胤は言った。
「虎狼も牙がなければ、誰がその威を恐れるだろうか。」
そして近江の帰参を認め、扶持を与えた。
相馬顕胤は質素純朴で、普段から近習外様を集め古今の政治について議論し、
賢愚得失を評した。
彼は常にこう言っていた。
「私が人を捨てなければ、人もまた、私を捨てないだろう。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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