顕胤への輿入れ☆ | げむおた街道をゆく

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陸奥相馬氏13代目である相馬盛胤は病気がちで体が弱く、

未だ幼い嫡子・顕胤への家督相続を進めていた。

 

そして顕胤の嫁として、奥州最大の勢力である伊達稙宗の息女を望み、
婚約を交わした。

所で先にも言ったように盛胤は病気がちであり、ある時伊達家より、

その見舞いの使者として、
伊達家中でその武勇が近隣にまで聞こえた飯淵尾張という者が派遣された。

しかし盛胤は病重く対面はならなかった。

かわりに嫡子である顕胤、この頃10歳ほどであったが、
彼の前に召し出されることとなった。

この時、顕胤は丁度味噌を製造する下屋に居り、飯淵への対面もそこで行われた。
この場所を選んだのは、相馬家の家臣たちが考えて行ったことであった。

『隠れない武勇の者である飯淵尾張なら、相馬の大将は未だ幼少であるが、

早くも弓矢の心得が有って、
味噌など兵糧のことにも心がけられていると称賛するでしょう!

彼は合戦の時の必需品として、
味噌が第一と言っている程の者ですから!』

そのように言って顕胤に進めたのである。

さて、帰国した飯淵尾張は、伊達稙宗の前でこのように報告した。

「殿はご息女をむざむざと御捨てになりますか!?

今回私は婿殿を見て来ましたが、
あの方はご自身で味噌の奉行をするような人物であり、

その程度の者が相馬の大将とは、
一体何と申し上げていいのか…。」

ほとんど罵倒である。大失敗であった。
報告を聞いて稙宗も不安になり、相馬盛胤が、

「私が生きているうちに新婦へ対面したい。」
と行ってきても、色々と理由を構えて輿入れを引き伸ばした。

このような状況に盛胤および相馬家中は焦り、

輿入れがないのなら伊達と合戦を行うという事にまでなり、

この強硬姿勢にようやく稙宗も娘を輿入れさせることに同意した。
 

時に永正17年(1520)、相馬顕胤13歳、稙宗息女15歳であったという。
そして稙宗息女が相馬の居城・小高城に輿入れしたその日、相馬盛胤は没したという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 私が人を捨てなければ、相馬顕胤

 

 

 

ごきげんよう!