慶長6(1601)年、
志村光安の軍が、上杉領東禅寺城を攻めたときの話である。
城攻めの最中、光安は城下で上杉軍の哨戒部隊と遭遇し、
交戦の末一人の眉目麗しい若武者を捕縛した。
若武者は光安に、
「死んだ仲間に申し訳がない。武士の名誉を知るならどうか殺してくれないか。」
と涙ながらに頼んだが、光安は、
「(東禅寺)城は(最上軍に囲まれ)孤立無援で間もなく落ちる。
せっかく生き永らえた命を粗末にせぬ様に。」
と説得をした。
しばらくして東禅寺城は最上軍に降伏し、開城。
庄内にいた上杉兵は米沢への帰途についた。
眉間に皺を寄せ、米沢行きに葛藤を覚える様に見えた若武者に、
光安は、
「上杉家に戻るのに後ろめたさを感じるのなら、我が下で働かぬか?」
と彼を勧誘した。
光安は彼を気に掛け、若武者も光安に次第に心を開き、
酒田三万石に加増となった光安は彼を常に近くに置き可愛がった。
1609年、死の枕元で光安は彼に、
「儂が死んだ後も子の光惟を頼む。」
と言伝をして逝世した。
しかし1614年。
彼が別の用事で庄内を空けている間に、一栗の反乱により志村光惟が暗殺された。
光惟の葬儀が終わり、
慶長19(1614)年暮秋、一人の士が酒田青原寺の志村光安の墓の前で腹を斬った。
かつての若武者の名は力丸所左衛門。
上杉の重臣で東禅寺城主であった志駄義秀の甥の話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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