最上義光の死から八年後の元和八(1622)年、
内紛により最上家は改易。
累代最上家家宰・氏家家当主の氏家左近(光氏。また別人説で親貞とも)は、
家内騒動を抑え切れなかった責を問われ山形から追放となり、
長門毛利家へのお預けとなった。
去んぬる氏家家当主であった氏家守棟(1534~1591)は既にこの世になかったが、
守棟の一族は最上家の改易により義光時代に授かった旧領の寒河江や白岩で帰農。
土地の名主や肝入となり、村を纏める者となった。
最上家改易により白岩には酒井氏が入封。
ただし重税と不作により、白岩では多くの餓死者を出した。
白岩の氏家らの名主は山形に代表を出し談判に赴いたが、
これらの者は山形で殺害された。
「願いは無視され話し合いも出来ぬのなら、お上(江戸幕府)に訴えるまで!」
と30人を越える名主や肝入・百姓代らが酒井氏の悪政と年貢の減免を求め江戸へ立ったが、
その多くが追捕されロクに取り調べもされずに殺された。
これらは「白岩の義民一揆」へと続く話。
守棟の流れを組む軽部といった一家が仲間内によって残された。
軽部家には底面に「大先祖」と記された氏家守棟の位牌が残る。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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