天正18(1590)年、小田原平定が成ると、最上義光は太閤秀吉から、
「わ主(お主)のところに野邊澤(延沢満延)といった剛の者がおるじゃろ。
是非ゆっくり会うてみたいものじゃ。上洛の折りに同道させよ。」
との命を受けた。
京には諸侯が同様に腕利きの家臣を連れて来ていたが、
武勇で知られた満延の下には入れ替わり立ち代わり、様々な大名家から、
「是非にいくさの話を聞きたい。」
「武辺の満延殿と親交を深めたい。」
と宴への誘いが連日の様にあった。
義光も満延も特に断る理由を持たなかったために、
諸将との交歓を行った。
夜分遅く京の最上屋敷に従者に抱えられる様に帰る、
赤ら顔の見なりの高そうな武将(満延か?)の姿があったと伝承が残る。
秀吉へのお目見えも無事済み、
京で新年(1591年)を迎えた最上義光は従四位下侍従に叙せられ、
一旦出羽へと帰国する運びとなった矢先に満延が倒れた。
半身不随となり、呂律も上手く廻らない満延を義光は大変不安に思い、
「ゆっくり養生せよ。又五郎(満延の息子)の事は心配せずに任せよ。
無理はせず、身体が治ってから山形に戻って来よ。」
と多額の薬代と当座の生活費と治療費、それに旅費を屋敷に残る満延の郎党に渡した。
義光が京を離れしばらくし、満延は回復する事なくこの世を去った。
享年48、脳溢血と伝えられている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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