蒲生秀行と申すのは、蒲生氏郷の嫡子である。
家老・蒲生四郎兵衛(郷安)の所業により、
家中が二つに割れる、
大きな騒乱が起こった。(蒲生騒動)
その咎により、百二十万石の会津を召し上げられ、
ただ十八万石にて宇都宮に移されたため、
譜代の侍共の多くが会津に残り、新たに入部した上杉景勝に召し抱えられた。
そして徳川家康による会津征伐が行われると、
秀行は密かに、自筆の書状を使者に持たせて、
会津に残る元蒲生家の侍共に遣わし、このように伝えた。
『お前たちは何れも、元々は蒲生家譜代の侍である。
一旦上杉家に付いたといっても、
きっと旧恩を忘れてはいないと思う。
この度、お前たちには秀行に対して、宇都宮が関東方の一の手先である事を以て、
関東の先手であるとして向かってくるのではなく、
昔の契を思って、景勝を裏切ってほしい。
それ私にとって本望であるし、その上に大分の恩賞を出す。』
これに対し、栗生美濃守(初めは寺村平左衛門)、岡野(岡)左内、志賀与右衛門、
布施次郎右衛門、外池甚五右衛門、小田切所左衛門、高力圖書、
安田勘介、北側圖書、等は何れも秀行の直書を拝見し、返状を送った。
その内容は、
『思し召しの所、誠に以て浅からず、忝なく存じ奉ります。
さりながら古より申し伝わる事にも、人の禄を食む者は、その人のために死すとあります。
古主の御恩浅からずと申しながらも、
差し当たって上杉の恩を受けながら裏切ることは罷りなりません。
殊更、景勝は現在天下を敵として受けられ、危ういことは目前に見えます。
こういった時に挑み、二心を差し挟むというのは、武士の恥辱です。
ではありますが今後御一戦に及んだ時に、秀行様が御難儀に及ばれた所を見かけた場合は、
我等は何れも馬を控え、進むこともしないでしょう。
どうかこれを御恩報と思し召しになり、
裏切りは御免候へ。』
これを見た秀行は感涙を流し、聞く人も皆称嘆した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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