蒲生騒動☆ | げむおた街道をゆく

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太閤様(豊臣秀吉)の時代、蒲生飛騨守氏郷に、会津百万石が下された。

彼はその前には、伊勢の津で12万石を領していた。

この氏郷が死去すると、跡目は子息の藤三郎秀行が継いだ。

そういった所で、家中が2つに割れた。
 

それぞ亘八郎右衛門方、蒲生四郎兵衛(郷安)方と呼ばれ、

両派による大きな紛争が起こった。

主君である蒲生秀行は、亘八郎右衛門方に心入れしていた。

並びに秀行の舅である徳川家康も同様であった。
蒲生四郎兵衛に対しては、石田治部少輔(三成)が取り持ちをしていた。

この騒動は蒲生家内部では処理できず、ついに秀吉の上聞に達し、

亘八郎右衛門に切腹が仰せ付けられた。
 

蒲生四郎兵衛はこの公事に勝利したものの、彼は、

「五畿内に召し置いてはならない。」

と、秀吉より仰せ付けられたため、

肥後に下り、加藤主計頭清正の所に召し置かれた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 蒲生騒動、蒲生秀行

 

 

 

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