伊達政宗の家臣・片倉小十郎重長の剣術の師に、志賀団七という男がいた。
この男、無道で知られた人物で、
寛永13年のある日、農民が娘二人を連れ、田で作業している所に通りかかり、
その際、娘が投げ捨てた草が袴に当たったと、
烈火のごとく怒り狂って、娘を切り捨てようとした。
父親が驚き、土下座して詫びるが聞き入れず、志賀はこの父を切った。
父は田の中を逃げたが力尽き、死んでしまった。
子供達も家に逃げ帰ったが、病気で臥せっていた母はこれを聞いて、
やがてショックもあったのか、後を追うように死んでしまう。
姉妹は親の恨みを晴らすため、かたみとなった土地を売り、
江戸に出て剣術家、由井正雪を尋ねる。
最初は相手にしなかった正雪だが、姉妹の熱心さと孝心にうたれ、
3年の間に仇討ちをさせることを約束。
姉に宮城野(みやぎの)、妹に信夫(しのぶ)と名をつけ、
姉には鎖鎌と手裏剣、妹には長刀を指導。
また、正雪の妻が二人に女としてのたしなみを教えるなどし、
ついに三年で器量・立ち居振る舞いとも門弟一となった。
門弟三人に付き添われて白石に戻った姉妹は、片倉小十郎重長に事の次第を説明。
曰く、
「父母ともになき今、生きるすべもないので、親子もろとも、
団七様のお手にかかって死にたい。」と。
願われた重長は、志賀の無道を知っていたので、伊達家を通して幕府に伺いを立て、
幕府から孝女であると特別に許しを貰った。
寛永17年(1640年)2月、白石川六本松河原にて、
片倉の侍150人と見物客1000人ほどに見守られ、
姉妹は正雪の妻から送られた着物と鉢巻、
一方の志賀は2尺5寸の大刀を持って、煌びやかないでたちで登場。
戦いが始まると、姉妹は奮戦し、姉が鎖鎌で志賀の腕をからめ取り、
妹が長刀で腕を切り落とし、
「父母の無念を晴らしたまえ。」
と叫ぶや、志賀の首を切り落とした。
仇討ちが終わった後、姉妹は武士を殺した罪を償うためにと、
その場で自害しようとしたが、
周りにいた人々に止められて思い留まり、姉妹揃って髪を切り、
生涯仏に仕えて暮らしたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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