織田信長の軍を、二度にもわたって撃退し、信長の弟・彦七郎信興、
あまたの重臣らを屠った、伊勢長島の一向一揆門徒の戦意は盛んであった。
というのも木曽川をはじめとして三本の河川を生かした自然の要害の地にあり、
浅瀬を渡ろうとする織田軍の兵士らは、
地の利を知り尽くし半裸で機敏に活動する宗徒の兵によって、
鎧を着たまま泥の中に引きずり込まれ、
もがくうちに次々と討ち取られていった。
いわばゲリラ戦だったからである。
天正2年7月、朝倉、浅井を滅ぼし、
意を強くした信長の大軍7万は、この地に襲いかかった。
次々に小城、砦は力攻めで陥落させていった。
しかし主城である長島は容易には落とせず、止む無く包囲しての兵糧攻め、
長期戦の様相を呈してきた。
焦燥を露わにする信長であったが、志摩を領する水軍の将、九鬼嘉隆が案を奏した。
果たして効あるや否や疑心暗鬼ながら九鬼の水軍に信長は先陣の任を与えた。
九鬼嘉隆率いる水軍、小舟を先頭に、
関船、安宅船を連ね広くもない川を慎重に遡上し始めた。
浅い泥の河である。
座礁を期待して見守る一向宗徒をしり目に、長島城の城壁のすぐ傍までに船団は達した。
そこで安宅船は、ついには浅瀬に乗り上げてしまった。
一向宗徒らが盛んに鉄砲、矢を射かける中、座礁した安宅船を砦とし、
次々に織田軍の兵士らは長島城内に攻め込んでいった。
また安宅船の船上から、九鬼嘉隆自慢の長鉄砲の一斉掃射により、
城の城壁は次々に砕かれ破壊されていった。
ここが正念場と一斉に小舟に分乗した織田の大軍、城内にどっと攻め込み、
次々と一揆軍を討ち取っていった。
こうして精強を誇った伊勢長島の一向一揆は、信長の前に屈したが、この和睦、
すんなりとはいかず、信長の兄弟二人が殺される散々な始末となった。
情け深き信長公であったから、二万人の一向宗徒らを、
遂には焼き殺し冥土に送って差し上げたのであった。
この川戦を予測した九鬼嘉隆、随分と前から志摩の狭く入り組んだ海において、
自らの水軍に艦隊編成、帆の操作、舵操船、漕ぎ手の気合、船上からの射撃、
等の特訓をしてあらかじめ鍛え上げていたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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