しかるに一鉄斎(稲葉良通)は、
勇猛の剛将たる故に、生涯の内には不義不仁の事が多かったのだという。
傍友の安藤伊賀守(守就)が、
信長の意に違えて居城の鏡島を改易せられ、
濃州を追放された時に稲葉が郎等を鏡島に遣わして狼藉をさせたなどの事は、
もってのほかの不道である。
それ故にその臣・斎藤内蔵助利三や、那波和泉守(直治)などが、
これを憎んで稲葉の家を出て、明智光秀に仕えた事などがあった。
その他に斎藤に背いて織田家に身を寄せた事も、
天下国家のためといえども実際は非義の振る舞いである。
しかして天正9年(1581)の正月元日に揖斐光親を攻め落とし、これより発心したという。三代相恩の主君の連枝を追い落したことは本意にあらずと思い、入道して一鉄斎と号しける。
さればその後からは善道を行ったといわれている。
それ故なのか、天正10年の夏であったが当国の先の太守・土岐頼芸は、
斎藤道三のために国を奪われ、
零落の身となって、その頃は上総の国の海喜という所に蟄居しておられたが、
この人は先年より眼病を受けて悩み煩い、後には盲人となり、
剃髪して宗芸と号し、世を頼みなく暮らしておられた。
稲葉一鉄斎は情を思い出し、君臣の義を重んじて痛ましく思い、
なにとぞ宗芸入道を美濃国に帰し迎え参らせんと欲した。
しかしながら一鉄斎は先年に揖斐五郎を攻め出した頃のことなれば、
これを聞かれたら自分を恨まれて来向なさるまいと思い、
それより思慮をめぐらせた。
厚見郡江崎村に住む江崎六郎というのは頼芸の末子なる故に、
すなわちこれをもって迎えのために遣わそうと六郎を尋ね出して、その事を申し含めた。
しかし六郎は幼少で頼芸と別れて長らく父子の対面もしていない事ゆえ、心許なく思った。
そこで乳父の十八条村の住人・林七郎右衛門を差し添えて、
天正10年7月、上総の国へ遣わし、宗芸を呼び迎えた。
これによって頼芸入道は再び当国に来向せられた。
すなわち一鉄斎はこれを請じて大野郡岐礼村に新館を構えて頼芸を住せしめ、
米2百石を参らせ、侍女5,6人を付けて労わった。
もっともこの岐礼の里は稲葉がしばらく住んだ所である。
しかるに頼芸は同年12月4日、仮初に病に伏してついにこの所で逝去なり。
法名・東春院殿前濃州大守左京大夫文閣宗藝大居士、年齢82歳なり。
すなわち一鉄斎より南化玄奥和尚を招き、導師とせり。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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