三好実休が、事実上の国主として、阿波を治めていた頃のこと。
実休やその弟・十河一存をはじめ多くの家臣が、
新当流の内藤太郎兵衛という武士から武芸を習っていたが、
篠原孫四郎は上方からきた式部なる者から指南を受けていた。
ところがあるとき式部が、
「新当流は実践の役に立たない。」
と批判したことが実休の耳に入り、
それならばと、それぞれから教えを受ける一存と孫四郎に立ち会いをさせ、
それが事実かどうか確かめようということになった。
試合の結果は、孫四郎があっさりと勝利し面目を施したが、
悔しいのは敗れた一存である。
その後、御番として一存が妙永寺に勤めていた時に式部が見廻りに来たときのこと。
一存は悔しさから、
「なんとかならんか。」
と家臣の十河新左衛門にささやいたが、
これを聞いた新左衛門は式部を殺すように命じられたものと合点し、
式部を不意打ちして斬り殺してしまった。
武芸の師範を殺された孫四郎は激怒し、
「一存を討つ。」
と息巻いて、2日のうちに五十騎が孫四郎のもとに参上する事態となった。
この状況に実休は、
「一存のことについては、長房の納得の行くように処置するので、
今回のことは堪忍してほしい。」
と長房をなだめるとともに、彼を惣侍頭に取り立てて事態の解決をはかった。
すると、一存の配下にあった者達が軒並み一存の元を離れて、
孫四郎の配下になることを望んでしまったため、
やむを得ず実休は侍衆を二分し、半分を孫四郎配下に、
もう半分を叔父の三好康長の配下にしたのだった。
なお、この孫四郎こそ、後に三好実休・長治父子のもとで手腕を発揮し、
畿内で活躍することになる、篠原長房の若き日の姿である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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