天正十九年、豊臣秀吉は、南部信直の老臣・九戸政実が、
陸奥国において諸士を集めて近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、
関白秀次を大将として進発させた。
この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、
九月七日の夜、密かに浅野長政の陣所に行き、
「信直の本領を安堵してくださるなら、速やかに城を退く。」
と告げた。
長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。
その時、秀次は、
「長政が我が命を受けずに、政実を許したことは無礼である。」
と怒り、長政に命じて中途で政実を誅殺した。
凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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