永禄10年(1567年)11月、
足利義昭は越前朝倉氏の本拠地一乗谷へ下向した。
朝倉家の当主・義景は、義昭の懇望する上洛には難色を示したものの、
妻を通じて親戚にもあたる義昭を粗略には扱わず、
国をあげて歓待した。
翌年4月には未だ元服を済ませていなかった義昭の元服式を、
自らが加冠を務めて執り行い盛大な宴を催した。
そして元服の一月後、代々の足利将軍が三管四職の館に御成りする際の形式に則り、
義昭の自邸への御成りを実現した。
この行事のためにわざわざ京都より公家の二条晴良も下向、
義昭に従う御伴の衆の数百余人、塗輿に乗った義昭は朝倉家臣が厳重に警固する中、
義景の館に入った。
三献の儀が執り行われ、義景より太刀・弓・鎧など様々な武具が義昭に献上される。
そして、庭に見事な鴾毛の馬がこれも献上品として引き出されてきた。
「おおっ!」
さすがは衰えたとはいえ武門の棟梁足利家の血を引く者である。
義昭は立ち上がって馬をよく見ようとする。
座敷に控えていた御伴衆も皆、庭に下りて馬を眺め讃嘆の声をあげる。
彼らも都を追われた落魄の身とはいえ、やはり武士である。
この時、義景は座敷にはおらず、かといって庭までは下りず、
縁の下に置いてある石の上に立っていたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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