足利義昭公が、上洛に成功し京に遷られ、武将(将軍)の家督を継がれたと言っても、
尊氏公より代々蓄積された和漢の珍器、武具の類は、
三好のために一時に炎滅したため、万事について調わないことばかりであった。
御領分はわずかであり、将軍の体裁にかなうほどの奉行、役人を抱えられたが、
人を抱えれば、日々に負担がかかるものであり、
また御道具も乏しく、かくして義昭公は、
「在る甲斐もない身の上かな。」
と、よろずに思い乱れ給われた。
ある時、義昭公は旧臣達を集めて御談合の事あり、織田信長へ使者を遣わした。
これは、
「よろずの道具について、少しづつ援助してもらいたい。」旨を、
条数をあげて(箇条書きにして)、
杉原を使者として尾張へ下したものであった。
やがて信長にこの書状を差し上げると、彼はこれを詳細に見て、
「こちらから後で御返事申すであろう。」
と、使者に対面せずにこれを帰した。
義昭公はその後数ヶ月待ったが、遂に返事すら無く時は過ぎた。
「いかなる所存を差し挟んでいるのか。」
と、都において怪しくのみ思し召しに成った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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