高山右近の下克上☆ | げむおた街道をゆく

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キリシタン大名、勇敢な武将であり、利休七哲の茶人、
ポルトガル語を流暢に話し、ラテン語も解したインテリ高山右近。
若年時からマニラ追放の晩年まで、際どい世渡りの連続であった。

1571年、彼が19歳の頃、直接の主家であった、

摂津守護職の一人・和田維盛が、白井河原の戦いで荒木村重に敗死して以来、
主家和田家に対する高山家は微妙な立場となった。
和田維盛の若年の長子の維長、及び和田一門との間は互いに疑心暗鬼、
次第に抜き差しならぬ険悪なものとなる。
 

高槻城内では、最後には高山飛騨守、右近長房親子を誅すべしという、

和田一門の意で占められるようになった。

 

そんな折り、更に主家筋である織田信長、足利義昭の間が険悪となり、

狭い摂津内では荒木村重の威があまたを取り仕切る案配であった。
 

高山親子で、親の躊躇いを制したのは、より現実主義者の右近であった。
主家和田家を見放し、新興の荒木村重につくこととなった。

1573年4月某日、高山親子は和田維長により高槻城に呼び出された。
飛騨守、右近も覚悟の登城である。
 

二人のみが通された薄暗い評定の間には和田維長と近臣が座している。
親子2人だけの入室と確認した維長の口から、両人を誅すべし、との声が上がる。
 

板戸を蹴破り十数人の和田家家臣が切り込んできた。

けり倒された燭台の灯が消え、
広間は真っ暗闇となったことが右近に幸いした。
いち早く右近は和田維長の襟首をつかみ上げ、首に深々と傷を与えるも、
入り乱れての混乱の中で討ち取ることが出来ない。
 

乱戦の中、彼自身も背中、首に深手を負い、命からがら城を脱した。
抜かり無く手回しの素早い荒木村重が率いる、3000名の軍勢が、

既に高槻城を囲んでいる。

結局、織田信長、荒木村重、細川藤孝らの合議、パワーバランスの結果、
和田家は高槻より追放となり、和田維長は傷が元で死亡した。
 

高槻城を拝領したのは高山ダリオ飛騨守、ジェスト右近となった。
右近も傷がこじれ死線を彷徨うも回復し、
これがその後の戦国大名の流転の人生の始まりとなった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 洗礼名・ジュスト、高山右近

 

 

 

ごきげんよう!