池田光政の家老・池田伊賀守長明は、加藤嘉明の外孫でもあり、
父が早逝した長明は、一時期嘉明に養われたこともあって、
裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。
ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、
嘉明の答えは、
「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。
「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが。」
「十五~六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。
かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
慶長2年(1597)7月、日本軍は巨済島沖で朝鮮軍船団数百艘と対峙した。
諸将は対策を話し合ったが、
加藤嘉明は、
「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」
と主張した。
ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。
「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、
ついには敵船団に迫ってしまった。
「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」
そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が動き出した。
要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。
河合庄大夫・庄次郎親子ら五人を連れた嘉明一行の船は、敵船団の中を進んでいった。
「殿、船はどちらに着けましょう?」
「中央の大船に着けよ。」
船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、
敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、
すでに火のついた敵船もあった。
嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った。
その瞬間、
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。
この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により、
海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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