会津征伐の途上にて、石田三成の挙兵を知った徳川家康は、
小山にて諸将と軍評定を行い、
その後、息子である結城秀康を呼んだ。
秀康が、家康の陣所に参ると、本多正信が迎え出て、
「少将様(秀康)、天下の安否は今日に決します。よく心してお答えなさいますよう。」
そう申し上げると跡に従って、家康の御前へと出た。
家康は東西の軍事状況を秀康に説明し、
「秀康、お前が私のためにここに留まって関東を鎮めるならば、
私は上方に向かって戦おうと思う。
これをどう考えるか?」
秀康はみるみる機嫌を悪くし、
「この秀康、どうして御後に残りましょうか!?
ただどこまでも、先陣をのみ望んでいます!」
しかし家康、
「上方の軍勢は、みな国々からの集まりに過ぎず、
それが何十万騎となろうと何ほどのことがあろうか?
しかし上杉家は累代関東の大将であり、中でも故輝虎入道(謙信)の時に至って、
弓矢を取って、天下に肩を並べるものは少なかった。
その子として景勝は、幼少の頃より合戦の中で成長し、
歳も既に老け、現在彼に対してたやすく合戦の出来るものは多くない。
天晴、お主のためには良き敵ではないか。
海道に向かって打ち込みの戦をするより、お主一人ここに留まって合戦をすることは、
且つは弓矢取っての面目、且つはこれに過ぎたることはない、何よりもの孝行である。」
そう語ると、秀康は少しの無言の後、
「…合戦は、必ずしも軍勢の多少には寄らぬと承っています。
上方の大将にも、名を得たもの少なく有りません。
軍勢の規模もきっと多いでしょう。
秀康は未だ合戦に慣れていませんが、景勝一人の軍勢と戦うのに、
何ほどのことがありましょうか?
もし大将をお許しになるのなら、私はここに留まります!」
本多正信は、これを聞くや感極まった。
「よくぞ仰せに成りました!
関東を鎮められるというのなら、その大将に参らせられること、
仰せにも及びません!」
家康も世にも嬉しげに、しきりに涙を流し、自ら鎧一領を取り出して、
「この鎧は、私が若い頃より身につけ、
ついに一度の不覚も覚えなかったものだ。
この、父の嘉例に准じて、今回奥方の大将として良き戦をし、天下に名をあげるのだ!」
そう言ってこれを与えた。
秀康も心地よさげに御前を下がり、下野国宇都宮に陣を取り、
関ヶ原の役の間、関東を鎮めた。
上方で西軍が敗れた後、景勝も降参を乞うて伏見へと参った。
秀康にはこの勲賞として越前国が与えられ、
明けて慶長6年5月、福井城へと移った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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