関ヶ原にて、島津の退き口についての事は、諸家に様々な説がある。
そのうち、井伊家の旧記によると、
井伊直政は敵陣の後ろに駆け抜け暫く息を休めていた所に、
島津の軍勢が、旗も指さず備えを真ん丸に固くして退いてきた。
直政はこれを見て、「あれは敵か味方か!?」と問うと、
家臣の早川弥惣右衛門という者が、
「あれは敵にて候」と申し上げた。
この時、葦毛馬に乗っている島津の家臣、山田隼人と言う者を見て、
「あの葦毛馬の武者を私が討ち取る!」と追いかけた。
直政が常に定め置いていた25人の近習は、
何れも人を選んで固く申し付けられ、引くときも足を乱さず、
進退とも一様にするようにと示し置かれていたのだが、
敵陣が乱れてくるに連れ、自分たち各々の働きのために、
次第次第に散乱して、いつしか直政の馬廻りを追いかけるのは、
馬上2,3騎、歩兵20人ばかりになっていた。
その上、直政は良き馬に乗っていたため、彼らを駆け離し、
島津勢が山の腰を引くときには、直政ただ一騎で進み、沼があったのを越えた。
この時、井伊家家臣の大久保将監と言う者、これも島津勢を駆け抜けて高名を遂げ、
帰る所にこの直政と行き合った。
将監は直政に、「あの大勢の中に、ただ一人で追撃されるのは勿体無いことです!」
と、直政の馬に取り付き引きとめようとしたが、
これに直政は大いに怒り、
「若者、離せ!」
と叱りつけた。
しかし将監が離さずに居た。
そこに、薩摩長寿院という者の組下の、川上久右衛門と言う者、
腰につけていた種子島を持って、田の畦に伏せてこれを撃とうとした。
その時喜内という者と、もう一人が双方に立ち並んで下知をした。
久右衛門がはやまって撃とうとするのを制し静めてかた撃たせると、
その弾は直政の右脇に当たった。
しかし、当たった所は具足であったので弾は通らず、そこで弾けて右腕に当たった。
このため持っていた鑓を落とし、暫く馬上で耐えていたがついに落馬した。
これに井伊家の家臣たちはすぐに馳せ集まった。
一番に斉藤半兵衛と言う者、その他、安井平右衛門、
川上庄兵衛などが、おいおい駆けつけ、斉藤半兵衛が直政を抱きかかえ馬に乗せると、
大久保将監は落ちた鑓を担いで馬の口を引き返し、そのうち大勢の家臣たちが集まった。
直政が落馬した時、島津方の川上久右衛門の側に立ち並んでいた者が、
刀を抜いて直政の首を取ろうと駆け出したが、
これを喜内が制して、
「敗軍に首はいらぬ!」
と引き退いたが、
追々直政のもとに駆けつけた人々が下馬しているのを見て、
「さてはあれは大将であったか! 首を取るべきであった!」
と後悔したそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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