本多忠勝は、正室との間に、忠政、忠朝の二人の息子を儲けた。
家康の関東移封にともない、忠勝は上総国大多喜10万石に封じられた。
さて、関ヶ原の戦い後、家康が忠勝に加増してやろうと話を持ちかけると、
「今の石高で十分です。私に加増は結構です。」
と固辞する。
それでも十分功績はあったのだからと、家康はちょっと考えて次のようにした。
忠勝には、伊勢国桑名10万石を与える。
それとは別に、次男・忠朝に上総国大多喜5万石を与える。
どうも忠勝は次男・忠朝の方が可愛くて、
何とか独立した大名にさせようと工作したらしい。
臨終の際、忠勝は家老に遺言書を預けた。
その内容は、
「桑名10万石の相続は幕命により相続。
その他、武具、馬具、茶道具など一切の物は、長男・忠政に譲る。
ただし、自分は他に黄金一万五千両を蓄えているが、これは、次男・忠朝に与える。」
これを聞いた忠政は激怒して、
「長男が全て相続するに決まってるだろーが!」
と忠朝に黄金を与えなかった。
一方、忠朝は、
「兄貴のほうが大身だし、何かとお金が必要になるだろうからいらない。」
と言って催促をしなかった。
弟の態度を家老から聞いた忠政はひどく恥じ入って、
今度は黄金を忠朝に渡そうとする、
忠朝は頑として受け付けない、でどちらも譲らない。
そこで本多一門の者が間に入り、黄金は二人で半分ずつ分けることで話が付いた。
しかし、忠朝は、
「急用があったら、その時渡してもらえればいいです。」
と兄の蔵に黄金を置いたまま、とうとう一度も手に取ることもなく、
大坂夏の陣で戦死した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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