徳川秀忠が、死ぬ、前年のことである。
秀忠、既に病により、体調を著しく悪くしていた。
その日は十月朔日(ついたち)、玄猪の祝いの日であった。
夕刻より、御家人や諸大名が登城する。
秀忠は病身を押して、これに出向こうとする。
しかしこの時、秀忠はもはや、脇差を差すことも出来ず、ただ傍らに置くのみであった。
これに左右の者たちは秀忠を諫めた。
「そのようなお体では、もし出仕の者たちの中に、乱心者でも出た時、
身を守るため脇差を抜くことも、出来ないではありませんか!
どうかここでお休みください!」
これに秀忠は、言う。
「わしが今夜病気を押して出向くのはな、ただ、御家人や諸大名に、
わしの病気を見せるためなのだ。
もはや回復もおぼつかなく、これが今生の別れにもなるであろう。
そう考えてのことだ。
それに、何かあればわしの身は、おぬし達が守ってくれるさ。
わしにはお前達のほかに、身を守るすべなど持っていないのだからな。
天下は、天下の天下だよ。
誰にも、天下を欲しい侭にすることはできない。
何事も、天命に任せるまでだ。」
秀忠の逸話は時々、必死に良き天下人であろうとしている所を切なく感じる事がある。
そんな、最後まで生真面目だった、秀忠のお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!