東大寺大仏殿の戦いで、松永久秀が東大寺に火を放つ。
三好家の兵威ここにおいて挫け、松永もまた孤軍となって、天下の人望に違えた。
君臣の道を失って、己が利をほしいままにする時は、
天命に逆らって久しからずして滅びる。
道によって身を滅ぼす者は、佳名を後世に伝える。
利によって身を滅ぼす者は、汚名を後世に流す。
人生50年といえども明日の滅びを知らず。
名は永久にして天地とともに存在する。
どうして人がこれを思わないだろうか、時の人は後世に言い伝えて曰く、
「永禄の十の十月十日の夜奈良の大仏焼ける。亥の時。」
という。
松永弾正(久秀)は、西京の城(多聞山城)を築き、
四壁を惣楼にして狭間を明け、
門戸もその楼の下を通したので、
人力をもって攻め入るのは難しい様子になした。
溝は深く塁は高く、険要の構え城である。
兵糧は3年分あり、長き謀には稲穂を積み干飯を庫に入れ、芋莖、干菜、焼塩、
塩噌、干魚、荒布、和布、海藻、薬種など、薪は土居に築いて炭は地中に埋め、
秣、糠、藁、馬食を足らせ、木実を集めて油を調え、鉄、銅、鉛は踏石として、
掻楯、輪木、車菱、車松明、雨松明、石火砲石、飛礫石、
水用の積まで細密に詮議して、欠けることのないようにした。
そして一行の札を立て曰く、
「この城において不足の物あらば、添札をもって申し出すように。」
ある時、添札が立ててありこれを見ると、
「財物で足りないものは、民を貪りこれを取る故に不足なし。
しかし、運命の不足は何を貪って取りなさるのだろうか。
これが1つの不足であろう。惣百姓中。」
と立てていたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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