細川家の筆頭家老・松井康之は、
歌道に優れ、茶の湯は利休・津田宗及に迫るとされ、
弁舌さわやかにして肝太く、数々の外交交渉にあたり、
成功を勝ち取ってきた。
忠興と明智玉(ガラシャ)の婚礼を取り仕切ったのも彼、
忠興が関白秀次に連座して、借金の返済を求められた時、
家康と交渉して、そのヘソクリを引き出したのも彼である。
慶長17年(1612)、その彼にも最期の時が訪れようとしていた。
「誰かある、遺言を言い聞かせる。」
「父上、興長これに。」
息子の興長が、康之の枕元へにじり寄った。
「よいか、わが家の者は、バカになって殿に仕えよ。」
「は? 父上、当家的には、『学問・茶道を極めよ』とか、
そんな感じでなくていいのですか?」
「ええんじゃ!ワシは歌道・茶の湯・学問・礼儀作法すべてを修めたが、
世間では不器用極まりない有吉頼母とワシを、
『細川の両家老』と言っておる!」
有吉頼母とは、細川家の記録に、
『みんなにマヌケと言われてました。』
とか書かれてしまった、有吉四郎右衛門立行のことである。
「しかも、ワシの方が戦の場数は二回多いのに、
『細川では儀礼は松井、武辺は有吉』
とまで言いおる!
つまり侍は、有吉みたくバカで不器用でも、一途に殿に仕えとりゃええんじゃ。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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