近江国愛知郡郷士・三井出羽守乗綱の孫の源助は、十六歳で甲斐に渡った。
狩猟の帰路で源助を見た武田信虎は、その人品風格が秀でているのを見て、
直ちに部下に採用して騎馬の従者とした。
源助(後に与右衛門)は信虎の下に三年いて、
しばしば戦功を挙げたので信虎の一字を賜って「虎高」と命名された。
たまたま母衣二〇騎の一人が欠けていたのでこれに充てがったが、
他の者が虎高が年少な事を軽視してしきりに不満を訴えたため、
信虎はやむをえず虎高を故郷に帰した。
帰郷した虎高は浅井亮政に仕え、亮政配下の越後守良隆の婿養子となった。
同じく良隆の養女であった妻(奇しくも“とら”という名であった)との間には、
二男一女をもうけた。
この次男の与吉が十三歳の時の事である。
虎高と兄の源七郎高則が主命を受けて賊を討ちに出掛けた。
与吉は父に同行を求めたが、年少を理由に断られてしまう。
そこで母に願い出て、父の脇差を借り密かに父たちの後をつけた。
賊が籠もる家の裏口に潜んだ与吉は、父たちに襲われ逃げて来た賊の何某を、
不意を打って一刀で切り伏せた。
年少と思っていた次男の手柄に喜んだ虎高は、自身の名を逆にして次男に授けた。
後の藤堂高虎である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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