永禄6年(1563)、毛利隆元公は、大友との和平締結に成功すると、
7月10日、本拠地吉田郡山に帰還。
翌日、城内にあった嫡子・幸鶴丸(輝元)公と、正室・福原殿を城下の宿舎に呼び寄せ、
三献のあと、お供の衆も召し出し、近年の戦局の次第、今回の大友との和睦のこと、
公方方からの上意のこと、そして何より、
父・元就公が数年にわたり油断なくお心遣いされており、
ご苦労されているのだということを、心静かに仰せられた。
そうして幸鶴丸公母子を御城に帰されたが、久しぶりの妻子との再会だというのに、
あまりうちとけない物であった。
腰を落ち着かせる間もなく、翌12日には尼子攻めの出雲戦線に合流すべく吉田を立ち、
佐部という場所で軍勢の集結を待ち、
8月5日には出雲に向けて出立するということになった。
その直前の3日夜、和智誠春に招待されそこで夕食を取り、本陣に帰られた。
翌4日夜、にわかに体調が崩れ、そのまま隆元公は急死した。
これに下々に至るまで嘆き悲しむこと、言語を絶する程であった。
御遺体は吉田大通院に納められ、葬礼相調えられた。
御法名は花渓常栄大居士とされた。
隆元公はその御一生の間、行跡能く御孝行を第一に考えられていたので、
『平重盛以来の御名将である』と、
他国の人々も揃って唱えていた。
隆元公が最期に吉田に帰られた時も、2日ほど滞在されたのに、
遂に御城には入られなかった。
どうしてかと尋ねられると、隆元公は、
「今、父上は雲州において、昼夜ご苦労されているのだ。
そんな所に、例え一夜であっても自宅に立ち寄るというのは、
あまりに気ままのように思う。
まあ、父上に対する敬意だよ。」
そう仰ったのだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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