以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して、
嫡男の秀就(数えで19才)に訓戒させるため、
慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。
私が、長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、
世上で言われています。
仕方がないことではありますが、
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け、
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう。』
などと申していると聞きました。
私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、
人も(立派に思って)驚くと下々の者が申したことがあり、
それを真に受けてそのように振る舞っていたときがありました。
しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるので、よくないと聞いた後は、
それに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。
まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き、
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、
私は十九になるまで、お側を離れず御奉公したものの、
それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと、
思っていないと、仕えていくことは出来なかったのです。
日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、
今も存じている者がいるはずなので、尋ねてみてください。
そういう訳なので私はこの年になっても、
世上を敬い、当世の利根才覚がないので、大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして、
国主などになりました。
今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)、
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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