広島城といえば、天正17年(1589)、豊臣秀吉の勧めにより、
それまでの本拠・吉田郡山城から、毛利家の新たな拠点として建設された。
この築城には秀吉から黒田如水がアドバイザーとして派遣されるなど、
豊臣家と毛利家の合作とも言うべき城であったのだが、
10年後、この城の真価が試されるときが来た。
関ヶ原である。
西軍総大将である毛利家の人数は多くが上方に上がり、
広島には少数の留守居が残された。
ところが、いざ留守を任された残った者達は甚だ困った。
何故か?
広すぎるのだ。
多くの者達が上方に出てしまった今、
広大な広島城を守備するには、留守居の数が絶対的に足りない。
惣構のうち、まともに警備の出来ているところは一箇所も無い、
という有様であった。
これには留守居の者達もあきれ果て、
「昔の郡山城だったらこの留守の人数でも十分防衛できたのに、
今の城では全く足りない。
これではどうにもならない。」
と、郡山城を懐かしみ、早々に郡山城を廃棄して、
広島の新城に移ってしまったことを大いに悔いた、との事である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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