不識庵以来の軍法☆ | げむおた街道をゆく

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1614年(慶長十九年)11月、大坂冬の陣での事。
 

大坂城の東北部にあたる鴫野で、徳川方の上杉景勝軍と大坂方が激突、

上杉軍が大和川の堤を確保したが、上士下士ともひどく疲弊した。

徳川家康は、他家の軍と交替するよう使者を出したが、要領を得ない。

上杉景勝、「・・・。」
 

上杉景勝家臣、

「それ大将が軍陣にある時、君命でも受けられぬ場合がある。
早朝より奮闘努力し勝ち得た地を、どうして他人に譲れようか!」
と、上杉景勝の家臣が言上するばかり。

 

家康は再度使者を出した。

派遣された使番は上杉軍の陣に至り、棚外から口上を述べるが返事が無い。
上杉景勝は青竹を杖にして、大坂城を睨みつけ、額には青筋。
その左右には馬廻り三百人が勢揃いしていたが、口を真一文字に結んでおり、
咳一つとして無い。

ただ、陣営には旗差し物が風にはためく音だけが響いているばかりだった。

上杉景勝、「・・・。」
上杉家家臣、「・・・。」

あまりの不気味さに使番はその場を立ち去り、家康に言上する。
『こちらが何を申しても、云でも無ければ寸でもない。
米沢の家中はまことに無礼者揃いにござる。』

徳川家康は報告を受けたとたん、感動の面持ちで膝を打った。
「それこそ、不識庵(上杉謙信)以来、受け継がれた軍法であろう。
お前は、良いものを目にした。」

上杉家中では、

『士卒は法制を守り、戦場では無駄口を利くな。ただ、旌旗・狼煙・金鼓・貝の役に従うべし。』
とされ、戦場での沈黙が美徳であると謙信以来の祖法として尊ばれたが、

景勝の場合はそれに極端だった。

上杉軍が行進する時は例え戦闘中でなくても誰も喋ることがなく、

足音だけしか聞こえなかったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 不識庵以来の軍法、上杉景勝

 

 

 

ごきげんよう!