天正十一年(1582)八月、
上杉景勝は、越後、信濃の旗下の兵を動員して、反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。
この時、城主・清野清左衛門佐は、景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と、兵四十余が籠るに過ぎなかった。
清就軒は、信玄公以来の武功の将だった。
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ、五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。
海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう。」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清も、さすがにこたえたのか、二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。
島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、
兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、
自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、
歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。
十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、
救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され、
「今度の様子、頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事、眼前なり。」
と叱責され、海津城主を罷免された。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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