天正十年、本能寺の変後、信州の真田(昌幸)、小笠原、蘆田らは上杉に降ったが、
すぐに北条に随心し、真田はまた北条を背いて、家康公に属した。
これによってその年の極月より翌年まで、上州沼田を始め、
八ヶ所の城を乗っ取り、剰え北条家との数度の攻め合いに真田は勝利した。
大いなる誉れである。
その翌年、天正十二年、家康公と秀吉公は御弓箭を取り給う時(小牧長久手の戦い)、
北条家は家康公より加勢を乞われたが、北条氏政・氏直は表裏の大将故遅達した。
この年の御取合はその度毎に家康公が御勝利し、秀吉公は退散された。
これによって、その年、天正十三年春、北条より家康公に仰せ入れられた。
「羽柴と重ねて御取合となった場合は、加勢致すであろう。
しかし先年(天正壬午の乱の)和睦の時、
上州は北条家に賜るはずの所、真田は沼田を取って保持している。
それをこちらに渡すように、
仰せ付けられ下さるべし。」
との儀であった。
これによって家康公より、
「沼田を北条に渡すように。」
と仰せ遣わされたが、替えの地を真田に下されなかった事で、沼田を渡さず、
ここに於いて真田昌幸は、上杉景勝公に、
須田相模守、島津淡路守の両人を頼んで訴え申し上げた。
『先年志を翻し、北条に頼った事は、愚意の仕る所であり、
これについて述べるにも及びません。
しかし、もし御赦免頂けるに於いては、当年十八歳になる愚息・源次郎(信繁)に、
百騎を差し副えて永代御被官仕り、春日山に差し上げ申します。
これこれの仔細を以て、家康に対し野心を挿んだために、
家康より上田へ手遣いがあるでしょう。
この時、貴国より、御加勢を請け、御助成を得たいと思っています。
然るに於いては、今後は御屋形(景勝)に対し、悪意を存じまじき。」
という旨を、牛王誓詞を添えて、新発田表の御陣所へ申し越した。
景勝公はこれを聞かれると、仰せに成った。
「真田の事、先年上杉に背いて北条に従い、北条を非に見て、家康に降り、
今度は家康に不足を言い、
家康より打ち手到来という状況になって、
現在近辺に頼る者が無くなってしまったことで、
又この方に申し越してくるというのは、万策尽きての儀であると考える。
しかし、武士は大小共に頼み頼まれて、家が絶えないように分別するものである。
今回、私が同心しなかった場合、十方より敵を受け、
殊に名将である家康に対し盾を突いたのだから、
真田の滅亡は疑いない。
それを見捨てるというのは、一つには不憫であり、
また一つには景勝の弓矢の規範とも異なる。
その上加勢を遣わさなかった場合、小身の真田を見捨て、
大身老巧の家康に、気兼ねをしたのだと評価されるだろう。」
と仰せになり、真田の詫び言を御許容され、御加勢なさると堅諾された。
これによって新発田表より御帰陣された。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!