羽柴秀吉が播州に進出する頃までは、
宇喜多直家も毛利に属していたのであるが、
隣国であるゆえに、直家は数年の間、別所と秀吉の弓矢の体を研究して、
家老である戸川秀安に密かにこう言った。
「信長、秀吉の鉾先は、我々の及ぶものではない。
その上彼らは賞を重くし爵を軽んじている。
それ故に、人はこれに懐いている。
我々がこれに属することをせず、後で後悔しては何にもならない。
私は急ぎ秀吉を頼りに信長に属したいと考えている。
そなたはこれをどう考えるか?」
戸川秀安はこれを聞いて、
「仰ることはご尤も、言われる通りだと思います。
そのお考えを、急ぎ実行すべきです。
このような事は延引きしては、その功を立てるのが難しくなります。」
と申し上げたが、直家は、
「それも去る事ではあるが、そなたの二男である孫六が、
毛利への人質として備後に置かれている。
私はこれを捨て殺しにするのが忍びないのだ。」
と、自分の思いを伝えた。
しかし秀安、
「御家の大事と、幼稚のもの一人ばかりを取り替えることが出来ましょうか?
その事を気にかける必要はありません。」
そう言って、絶って信長へ属することを勧めた。
これには直家も大いに感心し、
「それならば、孫六の事は後日に手立てをし、とにかく直ぐに秀吉を頼もう。」
と、その工作を整え、天正7年より信長に従い、播州での秀吉の合戦にも加勢を出し、
毛利家には手切れの使者を遣わし、
『そういうわけなので人質を返してほしい。』
と伝えたが、
勿論毛利がそのような事を、承知するはずもなかった。
このような中、直家は毛利の外交僧である安国寺恵瓊が、
所用が有って上京するという情報を察知した。
「これこそ絶好の機会だ!」
と、京の安国寺の許に使者を立て、
『ご帰国の時、備前に立ち寄ってください。内々のご相談をしたいことがあります。』
と申し送った。これにより安国寺が帰国の際に備前に立ち寄った所を押さえて監禁し、
安芸に使いを送り、
『戸川平右衛門(秀安)の子・孫六をお返し頂きたい。
さもなくば安国寺恵瓊をこのままこちらに留め置きます。』
と申し渡した。
この事態に毛利家でも様々に議論されたが、『それでも安国寺は捨てがたい。』
と、人質との交換に同意すると決まった。
そして備中何邉川を隔て、互いに人数を出して川中で行き違い様に双方を引き換え、
終に孫六を連れ帰ることに成功した。
戸川秀安は、直家が自分の子を取り返してくれたことに篤く感謝をした。
この孫六は後に助左衛門を名乗り、宇喜多家に仕えたそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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