備前、美作は残らず、播磨国数郡、備中の河東残らず、合せて百余万石を従えたのが、
宇喜多和泉守直家、岡山の城主である。
直家が未だ備前一国を手に入れて居ない時、上道郡沼城におられた。
しかし備前は既に大方手に入れており、
徐々に美作国所々を切り取った。
その頃、美作は雲州尼子家の支配下に有ったが、
尼子は安芸の毛利に押し落とされ、作州も毛利の手下に属した。
その隙きを見て宇喜多は所々切り取り、備前を奪い取った。
毛利はこれを聞くと、毛利家より備中松山の城主、三村紀伊守家親に申し付け、
『作州へ出勢して、作州を鎮めるように。』
として、紀伊守は一万余の人数にて出勢して、宇喜多を討ち果たし、
作州を取り鎮めようとしている、
との事が備前に聞こえた。
宇喜多直家は、これに思った。
「今、所々で取り合いをしている最中に、三村は大敵であり、
簡単に取りひしぐ事はできない。
である以上、謀を以て討ち取らん。」
そう考えると、遠藤喜三郎(秀清)という侍に密かに申した。
「其の方は三村家親が備中成羽に在城していた時、其の方も成羽に在って、
良く見知っているという。
今度、三村の元へ密かに忍び入り、討ち取る手立は無いか?
一重に頼み入る。」
このように申されると、遠藤は心安く請け合い、喜三郎の弟、修理(俊通)と、
ただ二人で作州へ忍び行った。
三村は作州穂村興禅寺(興善寺)という寺に屯して居たのを、遠藤兄弟は忍び入り、
頃は八月十八日の夜、
宵の内に三村は家臣を集め、物語していたのを、
障子紙を破りひそかに鉄砲にて三村家親を撃ち殺し、
恙無く退出して、兄弟とも備前に帰った。
直家は大いに喜び、喜三郎には十万石の知行を宛てがい、彼は遠藤河内守と名乗った。
弟の修理には三千石の知行を給わった。
三村勢は主を討たれて、作州より崩れて備中へと帰ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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