敵となり、味方となるのも☆ | げむおた街道をゆく

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備前瀧口城といえば、宇喜多直家が美少年の岡剛介を使い、

乞食の老婆を母と偽るなどして、
城主である松田氏家臣・サイ所元常を騙して暗殺し、城を奪い取った事で有名だが、

この瀧口城は備中の三村家親による、備前侵攻の時に奪われた。

そこで永禄七年(1564)、直家は松田氏などと和解した上で同盟し、

瀧口城を攻め、7月9日に、ついに城の奪還に成功した。

さて、同月11日、宇喜多直家から瀧口城で三村方として戦った、

備中幸山城主・石川源左衛門久式に、使いが送られた。

『今回は国人達が不意に合戦に及んでしまい、我々は呉越を隔てることになりましたが、
これは全く私の本意ではありません。

瀧口城の傍にある福輪寺から、討ち死にされた方の死骸を集め置きました。
雑兵の死骸は、福輪寺にて葬礼をいたします。』

直家はこのように申し寄越した。
石川久式はこれを聞いて、直家の懇情に感じ入り、返答を送った。

そして脇田村で討ち死にした石川方の将・小田小太郎の死骸は、

彼の郎党である名越修理と有岡右京が行って福輪寺の山の峰で葬礼をして墓所を築き、

印塔を立てた。
 

また討ち死にした兵429人は、同所の峰に3つの塚を作りそこに取り納め、

それは福輪寺の首塚と呼ばれるようになった。

この後、備中と備前との交通が絶たれたため、

備中の諸士で、この合戦で討ち死にした者の子孫や親族は、

2月、7月、8月の彼岸に、代理の僧を福輪寺に立てて、

墓所に火を灯し、墓に水をかけた。

宇喜多直家が毛利家に従い幕下に入ってからは、直家はこの地の郷民に申し付け、
墓所に石塔を建て、7月13・14日には、

脇田村、湯廻村、四之御神村の峰々に数万の火を燈し、
討ち死にの子孫、士農工商旧功の恩を思い出し、酒菓を供えて供養した。

宇喜多直家は、このように言った。
「敵となり味方となるのも、前因後果の報いなのだ。

仇であっても善の心で報いる事が、
義士道というものである。」

これを聞いた、ある古い武士は、こう感想を洩らした。
「直家は計略の謀の手腕を持ち、毛利家の威を借りて、まさしく家を興す人物であろう。」

と。

宇喜多直家の、備中の国人懐柔策の一端が、見えるような逸話である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 宇喜多の捨て嫁・異聞、宇喜多直家

 

 

 

ごきげんよう!