関ヶ原の戦いの後、安芸の毛利(輝元)は大阪に居たのだが、
吉川(広家)と申す家老が、
太夫殿(福島正則)に、徳川家康公と講和のための扱いを成して欲しいと申してきたため、
家康公にその事を申し上げた所、
「そういう事であれば扱いをされるように。」
との事で、吉川と講和の条件を協議した所、
「周防長門の二ヶ国を下される形で扱いを成して頂きたい。」
とこ申すに付き、この旨を家康公に申し上げた所、
直ぐに二ヶ国下されることに同意された。
この時、太夫殿は、
「扱いが成った後から二ヶ国を下される事を違われれば、
私が表裏者に成ってしまいます。
ですのでそうお考えの場合は、今より私が広島への先手を仕り、
毛利を退治いたします。」
との旨を申したため、二ヶ国は相違なく遣わされ、扱いが成った。
これにて毛利は周防長門二ヶ国を下され、大阪を明け渡し長門へと参った。
また島津兵庫(義弘)殿からも、
「私も太夫殿が扱いをして頂ければ、家康公に従いたいと思います。」
と望んできたため、太夫殿は、
「申し分が有れば承り、その上で扱いを入れますので、
その時は急ぎ畿内に上って下さい。」
と、使いの家老にしっかりと申し遣わした所、島津殿は望みとして、
「天下普請を免除して下さる形で扱いを成して頂きたい。」
と頼み入り、この事を太夫殿より家康公に申し上げた所、
「確かに遠国の者故、天下普請は免除しよう。」
と申されたため、扱いが成り島津殿は御礼に上洛した。
なお、これにより現在も島津殿は天下普請を致されないのだという。
太夫殿は安芸備後の二ヶ国を家康公より遣わされ、五十万石の御役儀を勤めた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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