関ヶ原戦後、京の守備を命じられた福島正則は所用で、
同じく京の守備を命じられた浅野幸長に、使番佐久間加右衛門を派遣した。
しかし、この時、家康は福島等豊臣家譜代の者を全面的には信用しておらず、
別に徳川譜代の臣・伊奈昭綱を日ノ岡に急行させ、
検問するようにも命じていた。
佐久間加右衛門は、この検問にて通行証を持たぬゆえ通過を認められなかった。
しかし主命を果たそうとする加右衛門は関所の者と口論になった。
「我が主は内府様に命じられての京の守護役であり、
これから使いに参る浅野殿も京の守護役である。
その御用筋にて使いに参るゆえ通されよ。」
と頼むが、関所の門番は、
「相成らんと申せば相成らん。」
と申すばかりで聞き入れない。
加右衛門はさらに強く頼むがついには数人に囲まれ六尺棒で打ち据えられてしまう。
その後、佐久間加右衛門は、主君・正則に経緯を話し、
「あの場で刀を抜いて闘っては相手は多勢であり、
手籠めにあえばますます恥をさらしてしまうと思い刀も抜けずにおりました。
なにぶんにも男の面目は立ちませぬゆえ切腹いたします。
されば今生の残る思いに、殿にお願いがござります。
事の次第を殿より伊奈昭綱殿にご通知くだされ、
佐久間加右衛門は臆病者にあらず、立派に腹を切って果てたと。」
正則は加右衛門の話を聞き、
加右衛門の名誉のためには立派に腹を切らせてやらねばならぬと思い、
切腹を許しこの家来の不幸に泣いた。
そして福島正則は事情を書いた手紙を添え、佐久間加右衛門の首を徳川家康に送り、
代償として関所の責任者・伊奈昭綱の首を要求した。
家康は加右衛門を追い返した門番達を切腹させ首を送り届けたが、
正則はあくまで伊奈の首を要求し、
正則との関係を悪くできない情勢だっただけに、
家康は仕方なく伊奈昭綱を切腹させ、その首を届けることで解決をみたのだった。
この事件を幕府は強く恨み、後年の福島家改易の罪状の一つになったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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