慶長元年(1596)7月12日の夜、後世に言う伏見大地震が起きた。
太閤秀吉の居城伏見城も甚大な被害をうける。
秀吉より謹慎を命ぜられていた加藤清正は、
被災した秀吉のもとに手勢300を引き連れいち早く駆けつけた。
そして清正は秀吉の許可を得て、警備のため、中門に家臣の加藤博蔵、加藤與左衛門、
和田備中、大木土佐、小代下総、出田宮内といった者たちを置き、
「この主計頭(清正)の許可を得ないものは、誰であっても通してはならない!」
と命じる。
そのようにしている内に、石田治部少輔(三成)を、
はじめとした奉行の者たちが、
登城してきた。
三成は中門で止められると、
「治部である。苦しゅうない、通らせよ。」
と言い放ち通り抜けようとした。
ところが警備の者たち、
「なんだと!?治部少輔などと言う者が、
地震からこんなに遅れてやってくるものか!?
通すわけにはならぬ!」
と、三成の通行を拒絶。
三成これに怒り、
「天下において誰一人知らぬ者の無い、
この治部少輔を知らぬ門番は一体どこの家中のものだ!?」
「加藤主計頭家中なり!!」
「主計!?主計は殿下より蟄居を命ぜられ御前を許されざる者ではないか!
それなのにこのように振舞うのは、一体どういう理由からか!?」
と、食って掛かる。
この時秀吉、この騒ぎを聞き、
「治部が来たようだ。ここに通すように。」
と清正に言った。
これに清正、警備の者たちに、
「あのチビの悪口野郎を通せ!」
と命じ、三成はようやく門の内に入ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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