清正の仕官☆ | げむおた街道をゆく

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かつて加藤因幡守藤原清信という人が、尾州犬山に住んでおり、

彼は美濃斉藤家の幕下であった。
美濃斉藤家と尾張の織田家が犬山に於いて戦った時、この清信は討死した。

 

彼には子息が一人あり、鬼若と言って二歳であった。

彼は母方に引き取られ、尾州愛知郡中村という所で成長し、

後に弾正右衛門兵衛と号した。

この弾正は三十八歳で死んだ。

弾正も一人の男子を遺した。

この時三歳で、虎之助と名付けられた。

母に育てられ、五歳までは、この中村に住した。

また、後の太閤秀吉公の母公と虎之助の母は従姉妹であった。

 

このため、虎之助の母は、こう考えた。

「今、木下藤吉郎殿は、近江の長浜にて五万貫の領地を知行され、

稀なる出世を遂げられている。
この子がこのまま田舎で育っては。

武士の作法も知り難い。ただただ、秀吉殿を頼み奉らん。」

そのように決心し、虎之助を召し連れて長浜に至り、

秀吉公の母公に委細を申し入れたところ、
母公は殊の外歓迎し、両人共に藤吉郎殿の御目にかけ、

母公のお傍にて養育された。

虎之助は十五歳の時、母に、このように言った。
「私は御蔭を以てこのように成長しました。

年齢は十五ですが、背も同年の者たちより高く、

故に前髪を落として元服し、奉公を勤めたいと思います。」

母はこれを聞くと、

「大人びたことを言うものかな。」

と、藤吉郎殿へ細々と申し語ると、藤吉郎殿は、ひときわ機嫌を良くして、

「内々にあの者の眼差しを見るに、

能く祖父である清信殿に似ておられると思っていた。

よろしい、前髪を落とさせよう。」

そう言って元服させ、加藤虎之助と名付けて、

初めて百七十石の領地を給わり奉公の身となった。

その頃、藤吉郎殿身内に、塚原小才次という兵法者があった。

これは塚原卜伝の縁類の武士であった。
虎之助は彼に従い、兵法修行をなした。

ある時、長浜の町人の家に、人を殺して立て籠もった者があった。

このため町中は大いに騒ぎたったが、
虎之助はこの様子を聞きつけ、常々伝授の兵法はこの時の為であると思い、

かの町人の家に走り行くと、
四方に大勢の人が集まっていた。

 

この中を潜り入り、虎之助は狼藉者を打ち倒して縄を懸けた。
手傷は一箇所も無く、搦め捕ってその家から出た。
立て籠もった者は、秀吉公の足軽で、市足久兵衛という者であった。

この首尾を秀吉公は聞かれ、

「常々かの者は常の若者のようではなく。

物の役にも立つだろうと思っていたが、よくも仕ったものだ。」

と仰せになり、二百石の加増が有って、

木村大膳組の小物見役に仰せ付けられ、虎之助は朝暮勤仕した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 蔚山城の戦い、加藤清正

 

 

 

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