石田三成は文禄元(1592)年、軍監として朝鮮に渡海した。
秀吉軍は怒涛の進軍を見せ、平壌まで進んでいた。
しかし、三成はあまりに早急な戦線の拡大から、
補給が追い付かなくなることや、朝鮮水軍による補給路の遮断を危惧した。
そして、民政の安定が優先であると考えた。
「明から大軍が駆け付けたらどうなるか。
反乱も相次いでおり、進軍より民衆の鎮撫を優先すべきだ。」
だが、勝ち戦で勢いづく諸将は納得しない。
三成の慎重論に、三成と近しい小西行長までが反対した。
そして小西ら一万五千が籠る平壌に、四万の明軍が押し寄せたのだった。
小西は慌てて撤退したが、鳳山の大友隊はすでに逃走しており、
小早川隆景の守る開城まで引き上げた。
ここで三成と小早川は対立する。
開城での決戦を主張した小早川に対し、
三成は戦線を縮小するため、さらに引いて漢城で迎え討つことを進言。
小早川は三成を、
「臆病風に吹かれている。」
と非難したが、しぶしぶ漢城近くの碧蹄館まで撤退することになった。
三成は明軍先鋒が騎馬隊中心であることから、
高所に布陣し、敵を引き付けて戦えば勝てると考えた。
小早川とともに高所に鉄砲隊を配置させ、
一斉射撃にて明軍の出鼻をくじき、大勝利を収めた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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