三成の戦略☆ | げむおた街道をゆく

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石田三成は文禄元(1592)年、軍監として朝鮮に渡海した。
 

秀吉軍は怒涛の進軍を見せ、平壌まで進んでいた。

しかし、三成はあまりに早急な戦線の拡大から、

補給が追い付かなくなることや、朝鮮水軍による補給路の遮断を危惧した。

 

そして、民政の安定が優先であると考えた。

「明から大軍が駆け付けたらどうなるか。

反乱も相次いでおり、進軍より民衆の鎮撫を優先すべきだ。」

 

だが、勝ち戦で勢いづく諸将は納得しない。
三成の慎重論に、三成と近しい小西行長までが反対した。
 

そして小西ら一万五千が籠る平壌に、四万の明軍が押し寄せたのだった。
小西は慌てて撤退したが、鳳山の大友隊はすでに逃走しており、

小早川隆景の守る開城まで引き上げた。

ここで三成と小早川は対立する。

開城での決戦を主張した小早川に対し、
三成は戦線を縮小するため、さらに引いて漢城で迎え討つことを進言。
 

小早川は三成を、

「臆病風に吹かれている。」

と非難したが、しぶしぶ漢城近くの碧蹄館まで撤退することになった。

三成は明軍先鋒が騎馬隊中心であることから、

高所に布陣し、敵を引き付けて戦えば勝てると考えた。

小早川とともに高所に鉄砲隊を配置させ、

一斉射撃にて明軍の出鼻をくじき、大勝利を収めた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 大一大万大吉、石田三成

 

 

 

ごきげんよう!